フルートのこと、響きのことなど
我が家に住まうフルート吹きたちが勝手気ままにおしゃべりします
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水戸五中の創立50周年記念の冊子に載せる文章の文字数が
たったの400字しかなかったので
欲求不満になってしまった
迷惑と思うけれどロングバージョンをここに投稿する
「中学校に入ったら、吹奏楽部に入ってフルートを吹けばいいわよ」
どこかで水戸五中の吹奏楽部の演奏を聴いて来た母が、当時小学生の私にそう言ったのだ。元来、「しなさい」と言われたことを、素直に受け入れるような子供ではなかった筈の私が、母の言葉に何の疑いも無く従ったのは、後にも先にもこの時だけだ。以来、中学校に入ったらフルートを吹くモノだと思って過ごした。
そして、初めての部活見学では、サキソフォーンのマウスピースを持たされた。楽器の形状が魅力的だったので、何となく引き寄せられたのだ。すぐに音が出た。何だこんなものかと思った。(サキソフォーン奏者の皆様ごめんなさい、あくまでも初期段階の感想です)翌日は「私はフルートを吹くのだ」と思って、勇気を出してフルートの先輩に近づいて行った。こちらは簡単には音が出なかった。何度か工夫して、息の角度を探さ無ければならなかった。今思うとそれが面白かったのだ。当時はフルートブームのくる少し前だったので、そんな私でもフルートパートになれた。一緒に始めたのはKちゃんとMちゃん。3人揃って同じ洋白のスチューデントモデルのフルートを購入した。なかでもKちゃんは、現在の私が思う「物理的にフルートに向いている骨格を持ったうらやましい人」だった。おまけにピアノが巧くてキチン楽譜も読めるし、そのうえ色白で可愛い、さらに明るくて活発で気が利いていて・・・・。とっても素敵な子だったのだ。(今は立派なベテラン看護士となって、たぶん大活躍中だろう)
毎日の登下校は吹奏楽部の仲間達と自転車を連ねた。下り坂の大きなカーブで(今の大久保病院の先)いつも誰かしらのフルートが投げ出されたが、大して気にしなかった。「ちょっと待ってて」と仲間を待たせて拾いに戻り、性懲りも無くまた籠に無雑作に入れる。そんな扱いでも楽器は丈夫だったし、だいたいの故障は自己流で直してしまっていた。支柱の陰にある調整ねじを見つけたのもKちゃんだし、Es Keyのコルクを失くして、ワインのコルクを削って付けたのもKちゃんだ。時には強引にキイを曲げたりもした。初めて分解してみたのもこの頃だ。
コピーが手軽にできる時代ではなかったので、配られた楽譜は各自写譜した。一度書いたらだいたい覚えてしまった。覚えてもさらわないとまわらない指があることを知った。
そんな毎日があまりにも楽しかったので、笛吹きになることを夢見てしまった。卒業の時には寄せ書きに「NHK交響楽団に入る」と書いた。日本一のオーケストラには入れなかったけれど、大学ではNHK交響楽団のフルート奏者であった師匠の植村泰一先生に遭った。この師匠とは以来、ずっとお付き合いさせていただき、生涯のかけがえの無い「師」として敬愛している。結局父の他界をきっかけに水戸に帰り、地元で音楽家として生きている。フルートを通して音楽の深い喜びを伝えることが、少しずつできるようになって来たかな、とようやく思えるようになって来た。
たったの400字しかなかったので
欲求不満になってしまった
迷惑と思うけれどロングバージョンをここに投稿する
「中学校に入ったら、吹奏楽部に入ってフルートを吹けばいいわよ」
どこかで水戸五中の吹奏楽部の演奏を聴いて来た母が、当時小学生の私にそう言ったのだ。元来、「しなさい」と言われたことを、素直に受け入れるような子供ではなかった筈の私が、母の言葉に何の疑いも無く従ったのは、後にも先にもこの時だけだ。以来、中学校に入ったらフルートを吹くモノだと思って過ごした。
そして、初めての部活見学では、サキソフォーンのマウスピースを持たされた。楽器の形状が魅力的だったので、何となく引き寄せられたのだ。すぐに音が出た。何だこんなものかと思った。(サキソフォーン奏者の皆様ごめんなさい、あくまでも初期段階の感想です)翌日は「私はフルートを吹くのだ」と思って、勇気を出してフルートの先輩に近づいて行った。こちらは簡単には音が出なかった。何度か工夫して、息の角度を探さ無ければならなかった。今思うとそれが面白かったのだ。当時はフルートブームのくる少し前だったので、そんな私でもフルートパートになれた。一緒に始めたのはKちゃんとMちゃん。3人揃って同じ洋白のスチューデントモデルのフルートを購入した。なかでもKちゃんは、現在の私が思う「物理的にフルートに向いている骨格を持ったうらやましい人」だった。おまけにピアノが巧くてキチン楽譜も読めるし、そのうえ色白で可愛い、さらに明るくて活発で気が利いていて・・・・。とっても素敵な子だったのだ。(今は立派なベテラン看護士となって、たぶん大活躍中だろう)
毎日の登下校は吹奏楽部の仲間達と自転車を連ねた。下り坂の大きなカーブで(今の大久保病院の先)いつも誰かしらのフルートが投げ出されたが、大して気にしなかった。「ちょっと待ってて」と仲間を待たせて拾いに戻り、性懲りも無くまた籠に無雑作に入れる。そんな扱いでも楽器は丈夫だったし、だいたいの故障は自己流で直してしまっていた。支柱の陰にある調整ねじを見つけたのもKちゃんだし、Es Keyのコルクを失くして、ワインのコルクを削って付けたのもKちゃんだ。時には強引にキイを曲げたりもした。初めて分解してみたのもこの頃だ。
コピーが手軽にできる時代ではなかったので、配られた楽譜は各自写譜した。一度書いたらだいたい覚えてしまった。覚えてもさらわないとまわらない指があることを知った。
そんな毎日があまりにも楽しかったので、笛吹きになることを夢見てしまった。卒業の時には寄せ書きに「NHK交響楽団に入る」と書いた。日本一のオーケストラには入れなかったけれど、大学ではNHK交響楽団のフルート奏者であった師匠の植村泰一先生に遭った。この師匠とは以来、ずっとお付き合いさせていただき、生涯のかけがえの無い「師」として敬愛している。結局父の他界をきっかけに水戸に帰り、地元で音楽家として生きている。フルートを通して音楽の深い喜びを伝えることが、少しずつできるようになって来たかな、とようやく思えるようになって来た。
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