フルートのこと、響きのことなど
我が家に住まうフルート吹きたちが勝手気ままにおしゃべりします
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カプリッシュのコンサートは盛況だった
でも、もっと広い会場で聴きたいと思った
コン・ミスの日比野さんの
ルイ・ロットで仕掛けるピアニッシモは
広い会場で真価を発揮するはずだ
それに刺激を受けた他のプレイヤーが
醸し出すサウンドが楽しみだ
あ、でも次は出るんだっけ
音楽大学を卒業した生徒と一緒に
受付を担当した
音楽をするための気は利かせられるけれど
受付が出来るとは思わなかったUっちが
ちゃんと大人になっていて
立派に務められたのは嬉しかった
厳しい社会で生き抜くことに不安を感じてはいるけれど
前向きに元気で頑張っていることが確認できて良かった
音楽会の余韻と音楽仲間との会話の楽しさで
ちょっと飲み過ぎてしまった
電車に乗ったのは覚えていないが
気づいた時には菊川
水戸に帰れるバスに乗れなくなってしまった・・・・・
というおまけ付き
おかげでんにゃんにゃんちゃんは
一人で寝たらしい
反省しきり
でも、もっと広い会場で聴きたいと思った
コン・ミスの日比野さんの
ルイ・ロットで仕掛けるピアニッシモは
広い会場で真価を発揮するはずだ
それに刺激を受けた他のプレイヤーが
醸し出すサウンドが楽しみだ
あ、でも次は出るんだっけ
音楽大学を卒業した生徒と一緒に
受付を担当した
音楽をするための気は利かせられるけれど
受付が出来るとは思わなかったUっちが
ちゃんと大人になっていて
立派に務められたのは嬉しかった
厳しい社会で生き抜くことに不安を感じてはいるけれど
前向きに元気で頑張っていることが確認できて良かった
音楽会の余韻と音楽仲間との会話の楽しさで
ちょっと飲み過ぎてしまった
電車に乗ったのは覚えていないが
気づいた時には菊川
水戸に帰れるバスに乗れなくなってしまった・・・・・
というおまけ付き
おかげでんにゃんにゃんちゃんは
一人で寝たらしい
反省しきり
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水戸五中の創立50周年記念の冊子に載せる文章の文字数が
たったの400字しかなかったので
欲求不満になってしまった
迷惑と思うけれどロングバージョンをここに投稿する
「中学校に入ったら、吹奏楽部に入ってフルートを吹けばいいわよ」
どこかで水戸五中の吹奏楽部の演奏を聴いて来た母が、当時小学生の私にそう言ったのだ。元来、「しなさい」と言われたことを、素直に受け入れるような子供ではなかった筈の私が、母の言葉に何の疑いも無く従ったのは、後にも先にもこの時だけだ。以来、中学校に入ったらフルートを吹くモノだと思って過ごした。
そして、初めての部活見学では、サキソフォーンのマウスピースを持たされた。楽器の形状が魅力的だったので、何となく引き寄せられたのだ。すぐに音が出た。何だこんなものかと思った。(サキソフォーン奏者の皆様ごめんなさい、あくまでも初期段階の感想です)翌日は「私はフルートを吹くのだ」と思って、勇気を出してフルートの先輩に近づいて行った。こちらは簡単には音が出なかった。何度か工夫して、息の角度を探さ無ければならなかった。今思うとそれが面白かったのだ。当時はフルートブームのくる少し前だったので、そんな私でもフルートパートになれた。一緒に始めたのはKちゃんとMちゃん。3人揃って同じ洋白のスチューデントモデルのフルートを購入した。なかでもKちゃんは、現在の私が思う「物理的にフルートに向いている骨格を持ったうらやましい人」だった。おまけにピアノが巧くてキチン楽譜も読めるし、そのうえ色白で可愛い、さらに明るくて活発で気が利いていて・・・・。とっても素敵な子だったのだ。(今は立派なベテラン看護士となって、たぶん大活躍中だろう)
毎日の登下校は吹奏楽部の仲間達と自転車を連ねた。下り坂の大きなカーブで(今の大久保病院の先)いつも誰かしらのフルートが投げ出されたが、大して気にしなかった。「ちょっと待ってて」と仲間を待たせて拾いに戻り、性懲りも無くまた籠に無雑作に入れる。そんな扱いでも楽器は丈夫だったし、だいたいの故障は自己流で直してしまっていた。支柱の陰にある調整ねじを見つけたのもKちゃんだし、Es Keyのコルクを失くして、ワインのコルクを削って付けたのもKちゃんだ。時には強引にキイを曲げたりもした。初めて分解してみたのもこの頃だ。
コピーが手軽にできる時代ではなかったので、配られた楽譜は各自写譜した。一度書いたらだいたい覚えてしまった。覚えてもさらわないとまわらない指があることを知った。
そんな毎日があまりにも楽しかったので、笛吹きになることを夢見てしまった。卒業の時には寄せ書きに「NHK交響楽団に入る」と書いた。日本一のオーケストラには入れなかったけれど、大学ではNHK交響楽団のフルート奏者であった師匠の植村泰一先生に遭った。この師匠とは以来、ずっとお付き合いさせていただき、生涯のかけがえの無い「師」として敬愛している。結局父の他界をきっかけに水戸に帰り、地元で音楽家として生きている。フルートを通して音楽の深い喜びを伝えることが、少しずつできるようになって来たかな、とようやく思えるようになって来た。
たったの400字しかなかったので
欲求不満になってしまった
迷惑と思うけれどロングバージョンをここに投稿する
「中学校に入ったら、吹奏楽部に入ってフルートを吹けばいいわよ」
どこかで水戸五中の吹奏楽部の演奏を聴いて来た母が、当時小学生の私にそう言ったのだ。元来、「しなさい」と言われたことを、素直に受け入れるような子供ではなかった筈の私が、母の言葉に何の疑いも無く従ったのは、後にも先にもこの時だけだ。以来、中学校に入ったらフルートを吹くモノだと思って過ごした。
そして、初めての部活見学では、サキソフォーンのマウスピースを持たされた。楽器の形状が魅力的だったので、何となく引き寄せられたのだ。すぐに音が出た。何だこんなものかと思った。(サキソフォーン奏者の皆様ごめんなさい、あくまでも初期段階の感想です)翌日は「私はフルートを吹くのだ」と思って、勇気を出してフルートの先輩に近づいて行った。こちらは簡単には音が出なかった。何度か工夫して、息の角度を探さ無ければならなかった。今思うとそれが面白かったのだ。当時はフルートブームのくる少し前だったので、そんな私でもフルートパートになれた。一緒に始めたのはKちゃんとMちゃん。3人揃って同じ洋白のスチューデントモデルのフルートを購入した。なかでもKちゃんは、現在の私が思う「物理的にフルートに向いている骨格を持ったうらやましい人」だった。おまけにピアノが巧くてキチン楽譜も読めるし、そのうえ色白で可愛い、さらに明るくて活発で気が利いていて・・・・。とっても素敵な子だったのだ。(今は立派なベテラン看護士となって、たぶん大活躍中だろう)
毎日の登下校は吹奏楽部の仲間達と自転車を連ねた。下り坂の大きなカーブで(今の大久保病院の先)いつも誰かしらのフルートが投げ出されたが、大して気にしなかった。「ちょっと待ってて」と仲間を待たせて拾いに戻り、性懲りも無くまた籠に無雑作に入れる。そんな扱いでも楽器は丈夫だったし、だいたいの故障は自己流で直してしまっていた。支柱の陰にある調整ねじを見つけたのもKちゃんだし、Es Keyのコルクを失くして、ワインのコルクを削って付けたのもKちゃんだ。時には強引にキイを曲げたりもした。初めて分解してみたのもこの頃だ。
コピーが手軽にできる時代ではなかったので、配られた楽譜は各自写譜した。一度書いたらだいたい覚えてしまった。覚えてもさらわないとまわらない指があることを知った。
そんな毎日があまりにも楽しかったので、笛吹きになることを夢見てしまった。卒業の時には寄せ書きに「NHK交響楽団に入る」と書いた。日本一のオーケストラには入れなかったけれど、大学ではNHK交響楽団のフルート奏者であった師匠の植村泰一先生に遭った。この師匠とは以来、ずっとお付き合いさせていただき、生涯のかけがえの無い「師」として敬愛している。結局父の他界をきっかけに水戸に帰り、地元で音楽家として生きている。フルートを通して音楽の深い喜びを伝えることが、少しずつできるようになって来たかな、とようやく思えるようになって来た。